いまでも、彼がこの世にいないことの実感があまりない。まだ、どのように書いていけばいいのか、よくわからない。
人は時として、幻影(イメージ)を投影する対象を日常生活から外れたところに求める。簡単にいえば「萌え」たくなる。対象となるものは、神様だったりアニメや小説の登場人物だったり有名人だったり、そのほか人によっていろいろであろう。
芸能人とよばれる人々は、幻影を不特定多数の人に売っていくことを仕事としている。歌を歌うこと、踊ることは人の注目をあつめ、異性の場合には性的なメッセージをもあわせて惹きつける。俳優は演じることによって仮想的なイメージを伝える。現代において彼ら彼女らの姿はメディアによって大衆に広められる。大衆は多くの情報の中でも、個々のかかえる主観に適合するイメージをもった対象に引き寄せられ、「萌え」る。
人間は前に進もうとし新しいものを得ようとする。幻影についてもしかり。多くの場合大衆はさらに自分のイメージを深めようと、対象について多くの情報を得ようとする。芸能人は大衆の要求に応えていくために、イメージを次々と生産していく。大衆の要求が大きい場合には、メディアをとおしての歌や芝居などの作品だけではおいつかない。記者会見、バラエティ番組などは、強力な手段となる。コンサートや握手会など姿がじかにみえる機会では強烈な印象を大衆に届けることができる。ただ、要求が過剰になると、仕事外の私生活もゴシップ記事として好むと好まざるにかかわらず売り渡さざるを得なくなる。
レスリー・チャンは香港の芸能界を代表する存在であり、アジアや世界の中国人圏で大きな支持をうけていた。日本でも熱烈な迷の支持を集めていた。
レスリーは、自身の幻影が大衆にうけいれられていることを自覚しており、そして「我」という歌で「我就是我(私は私)」と高らかに歌いあげるように、その幻影を自身が納得いく自分に近づけようとあがいていたようにもみえる。そして、ついには人生をも大衆に渡してしまったようにもみえてならない。幻影を投影される側にある人として、完璧だった。
私もレスリーが発する幻影をうけとっていた大衆の一人でしかなく、これも私が彼に持つイメージでしかない。
ただ、一人の人が亡くなったというだけでなく、あれだけの仕事をなしてきた人なのに、もうこれ以上、新しく彼が放つ幻影をみることができない事実があることが、残念であり悲しい。
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